Arahabaki’s diary

未来や宇宙についての研究家です。

保身のための嘘を知り

今週のお題「ゾッとした話」

ご訪問下さりありがとうございます。

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さて、このところ重たい記事ばかり書いてる気が😅でも、どこかから書けといわれてる気がするので書いてしまいます。

昨日みたいに歴史のことを考えていて、私がずっと気になっていたことを書いてみます。

それは日本が第二次世界大戦に参戦した理由についてです。

歴史を順番に見ていくと、なんか一般に言われてることと違う気がするのです。

これについて順番に見てみます。

当たり前ですけど、第二次大戦を始めたのは日本ではありません。良く知られてるように、ドイツが1939年9月1日にポーランドに侵略したのが原因です。それに対して英仏がドイツに宣戦布告して第二次大戦がはじまります。でも、間もなくポーランドは敗北し、1940年6月にフランスも降伏しています。

イギリスが一国だけでドイツと戦うことになります。下は、ちょうどその頃に日本の映画館で上映されていたニュース映画です。

www.youtube.com

もう、こういうのを見ると、当時の日本はドイツが勝つと思っていたことが分かります。

それで日本はドイツに接近して、降伏したフランスがアジアに持っていた領土に治安維持などを名目にして軍隊を送ります、これが、1940年9月22日の北部仏印進駐と呼ばれる事件です。そして、1940年9月27日に日独伊三国軍事同盟を結びます。

ただ、これは今の世界情勢でいえば、ウクライナと戦争しているロシアと軍事同盟を結ぶようなものです。

だから、当時の米英が怒るのも当然(?)のことに思えます。
なので、アメリカは1940年10月16日に、屑鉄や航空機用ガソリンの対日禁輸を決定しました。これは、アメリカの政策に反したことを日本がしているから、文句も言えないと思います。

だけど、英米が完全に日本に敵対的かというと、そうでもなくて1941年には、イギリスのチャーチル首相が非公式に以下のような手紙を日本の外務大臣だった松岡洋右さんに送っています。

seesaawiki.jp

下が、その手紙です。

四月十二日モスクワにて英大使より手交
外務大臣代理ウィンストン・チャーチル閣下より日本帝国外務大臣松岡洋右閣下への書簡。

閣下
私は貴国大使の為、取計らいし便宜を利用し閣下に誠意と好意ある友好的手紙を差上げます。
私は日本帝国政府及び国民の関心を呼ぶに値すると思われる二、三の問題を提案致し度いと存じます。
(一)
独逸は一九四一年の春、夏或は秋に於いて制海権又は英国の白晝の制空権なくして英国を攻撃して制服し得るでしょうかドイツは是を試みるでしょうか、是等の問題が判明する迄待つのが日本にとり有利ではないでしょうか。
(二)
英国及び米国が其の全工業力を戦争目的に転換したとしても米国の援助が英国海岸に到達し難き程英国の海上輸送に対する独逸の攻撃が強力であるでしょうか。
(三)
三国同盟への日本の加入が現在の戦争に対し米国の参戦を容易にしたでしょうか、或は困難にしたでしょうか。
(四)
若し米国が英国に味方して参戦し、日本が枢軸側に参加すると仮定して、英米両国の優勢なる海軍は欧州に於いて枢軸国を両分すると同時に日本を処分することを可能ならしめないでしょうか。
(五)
伊太利は独逸にとって力となるものでしょうか、重荷でしょうか、伊太利の艦隊は机上論程海上に於いても実際に強いでしょうか
伊太利艦隊は机上論としても曽ての様に強力でしょうか。
(六)
一九四一年末迄に英国の空軍が独逸の空軍より強くなるでしょうか、一九四二年末迄に英国空軍が独逸の空軍より遥かに強くなるでしょうか。
(七)
独逸軍及び独逸ゲスタポに依り抑えつけられて居る国々が年の経過と共に独逸に益々好意を持つ様になるでしょうか、或は持たぬ様になるでしょうか。
(八)
一九四一年には米国の鋼鉄の生産高は七千五百万トンになり、英国に於いては役千二百五十トンになり、合計して殆ど九千万トンになると云うのは真実でしょうか。万一独逸が以前の如く敗北すれば日本の鋼鉄生産高の七百万トンは日本単独の戦争の為には不充分でないでしょうか。

是等の問題に対する解答を考えるならば、日本は恐るべき災難を避けて西方の偉大なる海国英国と益々提携の要を感ずるでしょう。
敬具

ウィンストン・S・チャーチル(署名)

当時のイギリスはドイツに追い詰められていたので、チャーチルさんも、なんとか日本をドイツから引き離せないか考えていたのでしょう。

でも、松岡洋右さんはイギリスが負けると思っていたので、この手紙を無視しています。

その時、松岡洋右さんはモスクワに居たのですが、それはソ連と同盟を結ぶためでした。

当時の松岡洋右さんは、日本とソ連、そしてドイツとイタリアの4か国が手を結べば、英米に勝てると考えていたのです(これは陸軍の案でもありました)。日ソ中立条約は、チャーチルから手紙を貰った次の日、1941年4月13日 に結ばれています。

ところが、松岡洋右さんが日本に戻って間もなくの1941年6月22日、突然、ドイツがソ連に戦争を仕掛けました。

これは日本にとって青天の霹靂です。下の文章は、その当時の日本陸軍参謀本部の人たちの状況です(武藤章軍務局長と田中新一作戦課長の考え)。

思えば日独防共協定が結ばれているにもかかわらず、日本側に事前になんの通告もなしに交わされた独ソ不可侵条約は、日本に対するドイツの明らかな裏切り行為でした。独ソ開戦はそれに続く、日本に対するドイツの2回目の裏切り行為です。

独ソ開戦は三国同盟から日本が離脱する最大の、そして最後の好機でした。
(中略)
日本がこのまま三国同盟を維持すれば早晩、対米戦になってしまう、そうなれば日本が滅びてしまうと武藤は危機感を募らせました。

次節で詳説しますが、当時アメリカは日米交渉に際して日本に三国同盟からの離脱を求めていました。独ソ開戦によってドイツとの軍事同盟は戦略的にほぼ無意味になったのだから、多少妥協してもアメリカとの関係を修復すべきだと武藤は考えました。今、目の前にある危機をまずは避けるべきだとする論です。

田中と武藤で見解は真逆でしたが、陸軍内で多数派を占めたのは田中の見解です。その理由は田中のように先を見越したわけではなく、独ソ開戦となればドイツがソ連に勝利するだろうと予測されていたためです。

当時のドイツの強さは際立っていました。冷静に戦力を分析すればドイツの一方的な勝利とは予測しがたいものの、戦勝の流れに乗るドイツ軍の勢いがソ連軍を上回ると信じられていたのです。

陸軍の多くの軍人は「ドイツが勝つだろうから、このまま三国同盟を維持すればよい」と、さして疑問も抱かず現状維持へと流れました。

国際条約のもつ法的な拘束力や重み、ドイツに対する信義以上に、ドイツが勝つという揺るぎない信頼こそが、三国同盟破棄の論を封じた最大の理由です。

陸軍がこのような状態であったため、三国同盟維持か破棄かという極めて重要なこのテーマについて真剣に議論する場はほとんど設けられませんでした。
https://seijikeizai.jp/103610/

ここまで見ると、日本の思惑が悉く外れて、墓穴を掘っていることが分かります。

日本はチャーチルの助言を聞いて様子を見るチャンスもあったし、約束を無視したドイツを切って三国同盟を抜けるチャンスもあったのです。

でも、独ソ戦もドイツが勝ちそうに見えたので、日本はそのままドイツに付き合ってずるずる進んでいきます。

そして日本はまだ参戦していませんが、独ソ戦の開始でシベリア鉄道も使えないし、大西洋も戦争で封鎖されたので世界から孤立してしまいました。

そこで日本は、1941年7月に南部仏印にも進駐することにします。これは、日本が中国で対立していた蒋介石への英米の援助物資ルートを遮断するのが目的でした。
当然、蒋介石は怒ってアメリカに日本へ制裁するように主張します。それで8月に、アメリカは日本に対して石油の全面的禁輸をすることになります。

これでアメリカは、日本が折れるだろうと思っていました。石油が無ければ戦えないからです。

でも日本は折れませんでした。その理由は、1941年のドイツ軍がソ連に勝ちそうに見えたからです。モスクワ攻略戦が最高潮に達していたのは1941年の11月下旬から12月上旬にかけてです。ドイツ軍はモスクワの郊外まで進出し、ソ連首都の陥落は目前にみえました。

なので、日本としてはドイツがソ連に勝てば、英米の方が折れるはずと完全に思っていたのです。ただし何もしなくても日本の石油備蓄が減るので、ドイツが勝ったとしても日本は不利になります。

そこで、日本は英米に攻撃を仕掛けて領土を拡大してドイツの勝利を待つことにしたようです。当時の日本の参謀本部は、そのように考えていました(下の証言)。

日下公人瀬島龍三に開戦前夜の大本営について質問した。1941年11月26日にハル・ノートが出た頃、ドイツ軍の進撃がモスクワの前面50kmで停止し、大本営は「冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる。」と考えていた。「本当に大本営はそう思っていたんですか?」と瀬島龍三に尋ねると「思っていた。」と。続けて「もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか?」と尋ねると、「日下さん、絶対そんなことはありません。私はあのとき、大本営参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやるという人なんかいません。その空気は、私はよく知っています。」と答えた[28]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%B3%B6%E9%BE%8D%E4%B8%89

そして、1941年11月23日、日本の南雲艦隊がヒトカップ湾に集結し、26日には、真珠湾攻撃のため艦隊がハワイへ向けて出港しました。
日本が、アメリカからハル・ノートを受け取ったのは、艦隊が出撃した次の日の1941年11月27日(日本時間)です。
南雲艦隊は作戦中止も命令できる余地を残していましたが、予定通り12月8日にハワイ真珠湾を空襲しました。
この時系列から言えること。
それは、日本がハル・ノートを受け取る前に、もう真珠湾攻撃を決行する意思を固めていたということです。
ハル・ノートは、日本にとって戦争の引き金ではなく、正当化の口実に過ぎないように思えます。

たぶん真実は、ドイツの勝利に乗じて漁夫の利を得ようと思って参戦しただけのように思えます。第一次大戦の時、少し参戦して南洋諸島を手に入れたのと同じことが、再びできると日本の中枢の人たちは思った。けれど想定が外れた。そういう感じがします。

でも日本では、敗戦後、ドイツと違って体制が完全に排除されたわけではなくて、軍が消えただけで官僚機構はそのまま残りました。だから、戦後に敗戦の責任を問われると困る人たちが、たくさん残りました。

天皇や内閣制度、官僚機構が残って、占領軍がこれらを通じて間接的に統治したのが日本ですが、ドイツの場合は、もともとの統治機構(ナチドイツの政治体制)が消滅し、占領軍が直接統治するようになった
https://president.jp/articles/-/57741?page=5

それで日本は追い詰められたとか、罠に嵌ったとか、いろんな嘘を作ったように思います(今もその嘘を拡大している人たちがいますが目的は何でしょう?)。

本当は、当時の人たちの意思決定が誤っていただけなんです。

それで、思惑通りにいかずに最後は悲惨なことになりました。


www.youtube.com

(8/10追記)でも私は当時の人たちの開戦判断は間違っていたけど、山本五十六真珠湾攻撃だけは正しかったと思っています(下記リンク記事😅)。

arahabaki.hatenablog.jp

 

 


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