Arahabaki’s diary

未来や宇宙についての研究家です。

隠された歴史から未来へ

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前から書いていますけど、私は戦争の歴史について詳しく調べたことがあります。それで、今日は終戦の日なので戦争の話を書きたいと思います。

実のところ昔の私は、日本はアジア解放のために戦っていたとか、アメリカの罠に嵌められたとか、スターリンに騙されたとか色んな話を真に受け、本気で怒っていたことがあります。

確かに調べれば、ローズベルト大統領は人種差別主義者で日系人強制収容したし、自分の権限を強めるため戦争を利用しました。そしてアメリカ軍は非人道的な無制限潜水艦作戦や無差別都市爆撃(原爆投下もあります)など、容認できない戦争犯罪も使って日本に勝利しています。

ただし、では日本に何も問題がないかというと、そんな簡単ではありません。

でも日露戦争第一次世界大戦への参戦あたりまでは、日本の振舞は国際常識から見ても普通だったと思います。

日本の朝鮮半島や大陸進出そのものを悪くいう人たちもいますが、そもそも日本が明治維新で欧米と同等の通商ルールを整備しても、日本の周辺には近代化した国が無かったので、ルールに基づく国際取引が成立しなかったのです。

なので、日本は日本の周辺に国際ルールが通じる通商圏を創る必要があって、そうしないと貿易ができなかったのです。そして帝国主義のルールがまかり通る世界で、日本も生存して行く必要があったからです。

その過程で日清戦争日露戦争が起きたことには、国際的にも納得できる理由があったように思います。そして日露戦争に勝った結果、日本は満州でロシアが持っていた鉄道の権益を譲りうけることになります。

そして、鉄道防衛のために日本の関東軍満洲に駐屯することになります。


www.youtube.com

こうした満洲との関係が、結果的に日本に大きな不幸をもたらす事になってしまいました。

でも、始まりは日本の民族主義の人たちが、中国革命に関わったあたりにあります。

アジア主義を唱える孫文は、反帝国主義の考えを持っていて、日本を英国と並ぶ帝国主義の国とみていました。孫文は、日本を反帝国主義の陣営に引き入れたいと考えていたようです。それで孫文は、日本の協力を得るため、中国革命が成功したら満州を日本に割譲すると仄めかしてたことが知られています。

すでに辛亥革命前の一九〇七年一月、日本に亡命中であった孫文は、東京において行なった演説の中で、三民主義を高唱して清朝打倒を説き、中国革命の目的は滅満興漢にあるが故に、もしも日本が中国革命を援助してくれるならば、革命成功の暁には「満蒙」を日本に割譲しようと述べたと言われている。
孫文と「満蒙」問題
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1964/26/1964_26_22/_pdf/-char/ja

私は、このあたりが中国の秘密結社に、日本が振り回される始まりだと感じています。前にブログに書いていますが、孫文は中国の秘密結社のリーダーだったのが知られているからです。

arahabaki.hatenablog.jp

満州事変が関東軍の暴走なのは教科書にも出ています。

現地軍が勝手にやったことなので、日本政府や天皇の命令にも逆らっています。

ただ、満州事変には不思議なことがあって、当時満洲にいた張学良の軍隊は、蒋介石の命令で全く抵抗せずに満洲を明け渡しています。当時、張学良の東北軍は、関東軍の20倍の規模があったにも関わらずです(兵力差は関東軍が一万数千、対して同地域を支配していた張学良軍は二十数万と約20倍だった)。

1931年(昭和6年)9月18日夜、関東軍(関東州(旅順・大連とその付属地域)と南満州鉄道の警備を主任務とする日本陸軍部隊)の一部将校たちは奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自ら爆破し、これを張学良軍のしわざとして軍事行動を起こし(柳条湖事件)、翌朝までに奉天全市を占領した。

この日本軍の行動に対して蒋介石は不抵抗政策を命じ、張学良がそれに従ったので、関東はまたたくまに長春・営口・吉林など満鉄沿線の主要都市を占領した。

http://www3.kct.ne.jp/~atonoyota/gendai/49-20japan2.html

私は、もしかすると関東軍蒋介石の間に、何か裏取引があったと感じています。この時、既に孫文は亡くなっていますが、孫文の弟子であった蒋介石と日本の間には、深い関係があって、蒋介石は日本の陸軍に留学していたこともあるからです。

そして、蒋介石満洲でとれるアヘンの利益を関東軍と山分けしていた事実も知られています(下のような記事)。

里見は満鉄南京事務所に転職、蒋介石による南京政府共産党主導の武漢政府からの情報収集に努めた。この功績が関東軍に認められ、満州における通信社「国通」の設立工作に参画。満州でのメディア乱立を防止する目的で電通と満蒙通信社が一体となったのは1932年で、里見がその代表者となった。国通は日本における後の国策通信社「同盟」発足の足掛かりとなった。

 里見の国通代表は長くはなかった。次に関東軍が里見に期待したのは阿片の取引だった。 中国における阿片は蒋介石を含め政権を維持する重要な「資源」でもあった。関東軍がその「資源」を見逃すはずはなかった。熱河省は良質な阿片を産する地で、熱河省侵攻作戦も張学良の資金源を奪取する目的があったとされる。関東軍はさらに阿片の産地であった内蒙古もその勢力範囲とした。問題は天津や上海など大消費地との流通だった。

 里見が本格的に阿片と関わるようになったのは1937年に起きた第二次上海事変だった。特務機関から資金調達のための阿片の販売依頼があり、ペルシャから大量に密輸された阿片の販売に着手した。青幇、紅幇につながる盛文頤なる人物を仲介者として大量に販売するルートが見出された。「阿片王」の筆者、佐野真一によれば「裏社会に人脈のある里見にしかできない仕事だった」。

 里見は上海に宏済善堂という名の拠点を設け、ペルシャ阿片に引き続き、熱河阿片、内蒙古阿片の総元受けとなった。宏済善堂はもともと岸田吟香ヘボン伝来の目薬「精錡水」を中国で販売した善楽堂上海支店だった。「阿片王」には、阿片販売で得た利益について「半分は蒋介石、4分の1は南京政府の汪精衛が取って、残りの4分の1の八分を軍部に収めて、あとの2分を里見が経費を含めて取っている」という記述もあり、興味深い。阿片のお蔭で財政赤字だった南京市は「たちまち好転した」ともいわれている。

人間往来29 阿片王、里見甫

満州事変についてリットン調査団が調べているときも、関東軍天皇の意向を無視し、熱河作戦を行い国際的な印象を悪くしています。

熱河作戦は、熱河省でとれる良質のアヘンを狙ったものですが、その結果、日本は国際連盟から離脱することになってしまいます。

1933年2月、日本軍が中国の熱河省に侵攻、占領地を拡大。国際的非難が高まり、国連国際連盟総会は日本軍の満州撤兵を可決。それをうけ3月、日本は国際連盟脱退を通告した。5月塘沽停戦協定が成立したが日中関係は悪化が進む。
https://www.y-history.net/appendix/wh1504-043_0.html

結局、日本は関東軍の勝手な行動に引っ張られ、滅茶苦茶なことになっていくわけです。でも実際のところ、関東軍は何をしていたのでしょうか?

関東軍は、現地の秩序回復を名目に勝手なことをしていましたが、その実は蒋介石毛沢東とも関係していたし、敵側の蒋介石毛沢東にしても、戦ったり、国共合作でくっついたりしています。

毛沢東は日本軍と共謀していた――中共スパイ相関図|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

だから結局のところ、大陸で起きていた戦争というのは、プロレスのようなところがあって、蒋介石毛沢東関東軍の3者が、自分の影響力を大きくするための戦争ビジネスを、それぞれの思惑でやっていた面が強いのだと思います。

そして、関東軍が秘密結社にアヘンを売らせて得た資金は、莫大な機密費として日本の政界工作に使われました。

これが結局、そのころの右翼団体の活動資金になったり、政治工作につかわれ、軍部(主に関東軍)に独裁された日本を作ることになりました。

戦時中、高松宮の情報収集係をつとめた細川は、この日記に東条英機のアヘン資金疑惑を書き留めている。それを細川に伝えたのは、帝国火災保険の支配人・川崎豊である。
川崎曰く。中華航空で〈現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重役以下釈放〉された。これはその金が〈東条のもの〉だったからで〈以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々(しばしば)金品を送りたるを知り居るも、恐らく是ならんと〉。
この情報はホントだろうか。
信憑性を判断する材料を探すうちに田中隆吉に突き当たった。田中は日米開戦翌年まで陸軍省の兵務局長、つまり憲兵隊の総元締めだった男である。
陸軍の謀略活動にも深くかかわり、「東洋のマタ・ハリ」といわれた川島芳子の情夫だったこともあるらしい。敗戦後は一転して陸軍の悪行を告発し、旧軍関係者らから「裏切り者」「日本のユダ」と罵られた。
が、軍の病理に関する彼の指摘は鋭い。たとえば、こんなくだりが彼の著作『日本軍閥暗闘史』(長崎出版刊)にある。
満洲事変の勃発とともに、それまで僅かに二百余万円に過ぎなかった陸軍の機密費は、一躍一千万円に増加した。支那事変の勃発は更にこれを数倍にした。太平洋戦争への突入の前後に(略)正確な金額は全く表へ現れぬようになった。しかし当時の陸軍の機密費が年額二億を超えていたことは確実であった〉
2億円は今の1000億~2000億円に相当する。田中はさらに〈政治家、思想団体などにバラ撒かれた〉機密費は、彼の知る範囲だけでも相当額に上り、近衛文麿平沼騏一郎など歴代内閣の機密費の相当額を陸軍が負担していたとしてこう綴っている。
〈これらの内閣が陸軍の横車に対し、敢然と戦い得なかったのは私は全くこの機密費に原因していると信じている。それらの内閣は陸軍の支持を失えば直ちに倒壊した。(略)軍閥政治が実現した素因の一として、私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げたことを否み得ない。東条内閣に到っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた〉

満州事変から90年 満州国の裏面史: 素敵な「自転車と家庭水族館」

そして私が一番変だと思っていること。

それは、当時の蒋介石が、ヒトラーナチスと軍事同盟を結んでいたのに、そのことが当時はもとより、今も殆ど語られないことです🙄。

でも、それは歴史的な事実なのです😑。

ja.wikipedia.org

蒋介石の傍らには、1938年ごろまで、いつもドイツの軍事顧問団が居たのです(下の引用は上のリンクからの抜粋です)。

1935年1月、ファルケンハウゼンは、中国国防基本方針と題する対日戦略案を蔣介石に提出する。そのなかで、日本が攻撃してきたとしても、日本はソ連対策をとらざるをえず、また中国に利害をもつ英米とも対立すること、そして日本はそのような全面的な国際戦争には耐えられないこと、従って、中国は長期戦に持ち込み、できるだけ多くの外国を介入させることをファルケンハウゼンは提案した[11]。また同年10月1日には、漢口と上海にある租界地の日本軍を奇襲し、主導権を握ることを進言している。ファルケンハウゼンは中国にとっての第一の敵を日本、第二を共産党ととらえていたのである。しかし、蔣介石や何応欽らは当初、第一の敵を共産党とみなしていたため、ファルケンハウゼンの進言に反対した。しかし1936年4月1日にファルケンハウゼンは「欧州で第二次大戦が開始し、英米の手が塞がらないうちに、対日戦争を踏み切るべきだ」とさらに進言した<[12]。

そして1937年8月13日に、蒋介石は警備のために駐屯していた日本の海軍陸戦隊に対して、ドイツ国防軍ファルケンハウゼンの指揮の下に攻撃を仕掛けてきました。

これを日中戦争の始まりと見る歴史観もありますが、こんにちではこれを第二次日独戦争とみる見方もあります(第一次日独戦争は、第一次世界大戦時の青島攻略など)。

「第二次上海事変」の記事における「「第二次日独戦争」」の解説

8月12日、国防大ブロンベルクは、訪独して武器購入に奔走していた国民政府財務部長孔祥熙に対し「中国への武器輸出を継続するためあらゆる努力をする」と約束した。8月16日、ヒトラーは「中国との条約に基づいて輸出される物資 [武器] については、中国から外国為替ないしは原料供給で支払われる限り、続行せよ」と命じ、ドイツは日中戦争勃発後も対中国武器輸出を精力的に推進した。 ファルケンハウゼンは、上海戦の指導にも関与しながら、蔣介石にも適宜戦況の報告や助言を行い、ファルケンハウゼンが数日間、激戦の続く上海に滞在し自ら作戦を指導したことは、駐日大使ディルクセン(ドイツ語版)も知っていた。ファルケンハウゼンの指導のもとに、70 名以上のドイツ人は中国軍の各部隊と同行し、作戦を指導し、ドイツ人に訓練された部隊も日本軍に大きな損害を与えた。 同盟通信の松本重治上海支社長は、「上海の戦いは日独戦争である」と月刊誌『改造』に書いたが、そのところが削られて掲載された。

「第二次日独戦争」とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

一般的に、戦前の日本とドイツは同盟していて仲が良かったと思い込んでいる人が多いですが、それは主に三国同盟成立後の政府のプロパガンダと戦後に作られた単純化された印象操作が原因しています。

www.sankei.com

戦前のドイツと日本の関係は、どちらかというと敵対的でした。

但し、ドイツ留学組が多かった日本陸軍は、親独派の軍人が多かったのです(下の記事)。

第一次世界大戦後にはドイツが内南洋の金銭割譲を申し入れたことから分かるように、日本はドイツによる失地回復の企てを警戒した。ワシントン条約で協議の結果、日英同盟は解消されることになった。1923年の「帝国国防方針」第ニ次改定では、米国を仮想敵国のトップに据え、1936年の第三次改定では、仮想敵国のリストに英国が、その海軍力の規模に応じて第四番目に入れられ、やがて交戦状態の中国が三番目のドイツに取って代わり、ドイツは同盟国の位置に置かれた。だが、ドイツは日本を良いように利用し、ある意味では日本はドイツのせいで破局に至ったとも言ってよい。第二次上海事件はドイツが画策し、日本軍が戦った国民党軍の精鋭はドイツ人の軍事顧問が訓練した。そしてドイツ人顧問が戦略を練り、その指導の下に、第一次大戦の教訓を活かした強力なドイツ式トーチカ群が構築された。実際の戦場に現れた中国軍は、彼らが先頭で率いた軍隊であった。その鉄兜や軍服、大小火器、すべてがドイツ製であった。日本軍の敗北はドイツの中国進出と英国その他の欧州諸国の中国からの撤退を意味したので、危機感を抱いた英国は、ロンドンの陸軍省日本陸軍駐在武官を招き、調べ上げてきた上海での中国軍の布陣をそれとなく見せて、日本軍の攻撃に間接的な協力をした。ドイツ贔屓の日本陸軍は、ドイツの対日背信行動にもあまり抵抗感がなく、ナチスドイツの強力な軍隊を称賛し、支持し続けた。一方、海軍はどうかと言うと、途中からその中堅指導部は親独派に転じて、ドイツの圧倒的な勝利に続けという態度、いわゆる「バスに乗り遅れるな」の合い言葉に迎合した。その転向の背後では、ドイツからの諜報活動やハニートラップ攻勢が、彼らに影響を与えたという。

常磐短期大学研究紀要 39号(2010年度)p53、54
https://www.tokiwa.ac.jp/tokiwa/publication/college/pdf/college_39.pdf

上の記事にも書かれていますが、第二次上海事変の時は、イギリスがドイツの情報を日本に教えてくれたりするようなこともあったようです。

よく、第二次上海事変で海軍が反撃したのが日中戦争拡大の原因だと指摘して、海軍悪玉論に使う人たちがいるのですが、この時期の蒋介石は、人種差別が問題視されていたナチスと手を組んでいたので、イギリスの敵だったのです。

そういう事情を日本海軍の良識派の人たちも戦っていたから知っていました。なので信用できないドイツと組むことに反対していたのです。

海軍次官時代には、米内光政(よない・みつまさ)海軍大臣、井上成美(しげよし)軍務局長とトリオを組み、米英との戦争を招くことを推察し、日独伊三国同盟に徹底的に反対した。中でも、山本五十六次官こそ、元凶・国賊とみなされ、陸軍から圧迫を、右翼から脅迫まで受けることとなるが、頑として説を引っ込めなかった。
 こうした状況下で、米内光政は、山本五十六の命を心配し、1935(昭和14)年連合艦隊司令長官に転出させる。ほぼ同時に大将になる。
 しかし、トリオが去った後の中央では、独伊との枢軸派が勢いを得て、1940(昭和15)年、日独伊三国軍事同盟が成立。対米英戦争が不可避となっていく。
https://www.mskj.or.jp/thesis/9496.html

第二次上海事変の後、日本はわざわざ蒋介石からドイツを引き離して同盟を結ぶという訳の分からない行動をします。もしその時、日本が三国同盟を結ばずに、蒋介石ヒトラーをくっつけたままにしていたら、その後の推移によって枢軸国はドイツ、イタリア、中国で、日本は連合国側になって英米ソ日で第一次世界大戦のように、連合国側で勝利する(?)可能性もあったかもしれないのです。

でも現実に起きたことは、日本が蒋介石ヒトラーの関係を切ったから、蒋介石はローズベルトに助けを求め、アメリカに根を下ろす華僑勢力を動かして、アメリカを使って日本を叩かせる流れになって行きます(下のリンク記事など)。

tanken.com

そして日本は、この前、私が書いたみたいにドイツが勝利すると思い込んで、戦争に踏み込むことになりました(私の考え)。

arahabaki.hatenablog.jp

こういう歴史の流れについて、一体、どれくらいの人が気がついているでしょう?

そして、そんな変なことになったのは、一体何が原因かというと下のような事情があります。

では昭和の陸軍人はなぜこれ程ドイツにのめり込こんだのでしょう?
意外と簡単なんです。
日本の軍人は何故かドイツだけではモテモテで困って
しまうほどにモテ経験があり、そこで魅了されたのか
弱みを握られた?なんですね。

第一次大戦後のドイツは超インフレで日本の軍人は赴任手当や
機密費でドイツで楽に過ごせた・・・と巷では通説になっておりますが
ドイツ側はドイツに赴任してきた武官である日本軍人(特に陸軍)に
だいたい一軒家を用意し生活の食事や洗濯等を行ってくれる美人メイド
さんを用意してくれました。

実態は女スパイですから夜の性サービスもあります。
日本の軍人さんは皆甘えてひっかかりましたね。
考えてもみてください、石原莞爾さんなんかも小柄で
茶瓶頭ながらご自分でもドイツではモテまくった
と帰国後に手柄話のように喋ったそうで、、もしかすると
医学官として留学し恋をした(本人談モテた)舞姫
のモデルとなった女性でさえ女スパイでは無かったとは
いいきれません。

そんな訳でドイツに留学や武官として赴任した大正・昭和の
軍人たちはユルユルでしたからドイツが本当に好きになったのか
少しは弱みも握られていたのか?ドイツに傾倒しまくり第二次大戦
参加へ繋がる航路を決めてしまいました。
https://naomoe320.blog.fc2.com/blog-entry-2984.html

こういうことは、小説家の半藤一利さんとかも仰ったりしているので、私は下のようなことを言ってる人たちって、気持ちは分かるけど許せないと感じています。

仕組まれた敗戦!真珠湾攻撃の裏側【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第7回】 - YouTube

もし、開戦時にアメリカを刺激したくないのなら、フィリピン(当時は米国植民地)攻略や米国に宣戦布告せずに、英国とオランダにだけ宣戦布告して、英領土とオランダ領土だけ攻撃すればよかったのです。だから、フィリピン攻略してる時点で、上のリンクの人たちの言っているような話は、そもそも成り立ちません。

そしてもし、日本が三国同盟を維持したまま、ドイツを勝たせる作戦に協力したりしていたら、結局、私が以前に書いた下の記事のようになったと思います。

arahabaki.hatenablog.jp

だから、私はいろいろ考えてみて、とてもつらいけど、あの戦争は、あの終わり方以外にはなかった気もするのです。

そうしないと、日本はナチス関東軍から手を切れなかったでしょう。

結局、私が感じたことを要約すれば、関東軍蒋介石と結びついてアヘンビジネスを行い、日本の国家意思を無視して満州国を作りました。関東軍はアヘン資金で日本政界を動かし、ナチスと組んで日本を世界戦争へ導くことに手を貸しています(よく日本は、反植民地で人種開放のために戦ったとかいう人もいますが、人種差別主義のナチスと手を組んでいる時点で、全く成り立ちません)。
そして、そういう勢力と戦っていたのが、昭和天皇日本海軍の一部の人たちでした。

こういう歴史を、日本の上級国民の人たちは、国民に隠そうとしています。たぶん、いろいろ、やましいことがあるからではないでしょうか。

ニートラップに引っかかってるとか、今でもある話ですから😑。


www.youtube.com

日本は、反省するところは反省する必要があると思います。そうしないと良い未来になりません。

もちろん、日本の歴史にはいいところもあって、そういうのは認めるべきですけど、なんでもかんでも、歴史を都合よく作り変えたりするべきではないと思います。もちろん、歴史解釈にはいろいろあるから、決めつけるのも良くないんだけど。でも、何かを知るためには、本当に深く事実を見極める必要があると思うのです。

 

 


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